意味を見出す
石川がいつごろ死ぬことになるのかわかりませんが、
嬉しいことと残念なことがあります。
嬉しいことは、石川が以前勤めていた学習塾の経営陣の交代を垣間見えること。
(あの人達がどのような形で会社を去るのかそれともぶら下がるのかワクワクしています。)
残念なことは、少子高齢化を乗り越えた日本の様子を見れないこと。
石川は明日死ぬかもしれませんし120歳まで生きるかもしれません。
災害などによりソフトランディングどころの話ではないかもしれません。
こんなことをして何の意味があるのだろう?
このように感じている中高生は多いのかもしれません。
でも、勉強どころか多くの大人がしている仕事も大した意味なんてないのかもしれません。
明日、死んでいるかもしれませんし、明日、地球が滅亡しているのかもしれませんから。
人のためになることをやったところで、明日、某国から発射されたミサイルにより全員死んでいるかもしれません。
(その人が死んだからと言って、なしたことが無価値になるなんて石川は思っていませんが。)
東日本大震災で多くの方が亡くなり、今だに復興したと言えない状況もある。
直接的に地面が揺れていなくても、計画停電や流通網の麻痺による品不足など間接的には誰もが影響を受けたはずです。
でも、明日がやってくるので生きねばならない。
多くの方が亡くなったこと、まだこれからどうなるかわからないことは承知していますが、新型コロナウィルスの出現により、
緊急事態宣言がなされたり、感染したことで村八分にされたことを苦にした自殺者が出たり、マスクをするしないでもめたり、多くの企業が倒産しても、
どうも明日はやってくるらしいのです。結構なサイズの隕石が落ちたり、核戦争でもしない限り、人類滅亡とまではいかないみたいなのです。
ロシア-ウクライナが戦争をしています。日本も全く無縁でいられません。ガソリンなどの燃料費の高騰をはじめ無縁でいられないのは事実なのですが、だからといって、
明日から学校・仕事に行かなくて良いとか、明日食べるものがなくて飢え死にするとはならないのです。
影響を受けるのですが支配的な要素でないこともまた事実です。
世界のどこかで誰かが死んでも、私はいつも通り生活するでしょうし、
私が死んでも、世界の人々はいつも通り生活するでしょう。
勉強することも、勉強しないことも、どちらにも意味があるのでしょう。
今日の過ごし方が次の日の過ごし方に影響を与え、何かを成したり、何も成しえなかったりするのでしょう。
大きい小さいはあるにしても、周りの人に影響を与え、周りの人から影響を受けて生きていくのでしょう。
大変なことも、苦しいこともあるのですが、ほぼ間違いなく明日がやってきます。
人生を悲観して死んでしまうのも一つの方法かもしれませんが、人は時間が経てばいずれ死にます。
死を急ぐのではなく生を楽しむ方が良いと思います。
そのためには、意味があるかないかを考えるのではなく、意味を見出すこと、が大切なのではないでしょうか。
石川が以前勤めていた学習塾の経営陣がどうするかなんて、石川以外の人にとってどうでもいいことですよね。
でも石川はそこに意味を見出し日々楽しく生活しています。
嬉しいことと残念なことがあります。
嬉しいことは、石川が以前勤めていた学習塾の経営陣の交代を垣間見えること。
(あの人達がどのような形で会社を去るのかそれともぶら下がるのかワクワクしています。)
残念なことは、少子高齢化を乗り越えた日本の様子を見れないこと。
石川は明日死ぬかもしれませんし120歳まで生きるかもしれません。
災害などによりソフトランディングどころの話ではないかもしれません。
こんなことをして何の意味があるのだろう?
このように感じている中高生は多いのかもしれません。
でも、勉強どころか多くの大人がしている仕事も大した意味なんてないのかもしれません。
明日、死んでいるかもしれませんし、明日、地球が滅亡しているのかもしれませんから。
人のためになることをやったところで、明日、某国から発射されたミサイルにより全員死んでいるかもしれません。
(その人が死んだからと言って、なしたことが無価値になるなんて石川は思っていませんが。)
東日本大震災で多くの方が亡くなり、今だに復興したと言えない状況もある。
直接的に地面が揺れていなくても、計画停電や流通網の麻痺による品不足など間接的には誰もが影響を受けたはずです。
でも、明日がやってくるので生きねばならない。
多くの方が亡くなったこと、まだこれからどうなるかわからないことは承知していますが、新型コロナウィルスの出現により、
緊急事態宣言がなされたり、感染したことで村八分にされたことを苦にした自殺者が出たり、マスクをするしないでもめたり、多くの企業が倒産しても、
どうも明日はやってくるらしいのです。結構なサイズの隕石が落ちたり、核戦争でもしない限り、人類滅亡とまではいかないみたいなのです。
ロシア-ウクライナが戦争をしています。日本も全く無縁でいられません。ガソリンなどの燃料費の高騰をはじめ無縁でいられないのは事実なのですが、だからといって、
明日から学校・仕事に行かなくて良いとか、明日食べるものがなくて飢え死にするとはならないのです。
影響を受けるのですが支配的な要素でないこともまた事実です。
世界のどこかで誰かが死んでも、私はいつも通り生活するでしょうし、
私が死んでも、世界の人々はいつも通り生活するでしょう。
勉強することも、勉強しないことも、どちらにも意味があるのでしょう。
今日の過ごし方が次の日の過ごし方に影響を与え、何かを成したり、何も成しえなかったりするのでしょう。
大きい小さいはあるにしても、周りの人に影響を与え、周りの人から影響を受けて生きていくのでしょう。
大変なことも、苦しいこともあるのですが、ほぼ間違いなく明日がやってきます。
人生を悲観して死んでしまうのも一つの方法かもしれませんが、人は時間が経てばいずれ死にます。
死を急ぐのではなく生を楽しむ方が良いと思います。
そのためには、意味があるかないかを考えるのではなく、意味を見出すこと、が大切なのではないでしょうか。
石川が以前勤めていた学習塾の経営陣がどうするかなんて、石川以外の人にとってどうでもいいことですよね。
でも石川はそこに意味を見出し日々楽しく生活しています。
この記事へのコメント
「そもそも勉強ができるということ自体、発達障害だよね。つまり、一定の大学を出ている人はもはや頭おかしいよね。」
という話をしていました。大学に入るために、3教科ないし5教科、さして興味もなく、生きていく上で必須でもないことを覚え、理解し、テストを受けて一定の成績を残す。そのための集中力や記憶力を備えていること自体が、生物としてどうかしている。その通りだなと思います。
学習塾のブログでこんなこと書く私もとち狂っていると思いますが、そもそも勉強なんてしなくても生きていけるし、大学なんて行かなくても幸せな暮らしはできるでしょう。なぜ大学に行くのか、と問われたら、ほとんどの高校生は色々な理由をつけると思いますが、その根底には「周りがみんな行くから」というのではないでしょうか。周りがみんな大学に行くし、良い大学に行くことを良しとされているらしいから、少しでも難しい大学に行くのだと。
大学院に行くのも、4大卒や修士修了で就職するのも、ほとんどの人は「周りがみんな行くから」「その方が浮かないから」と言ったように、たいていマイノリティにならない方が良いからという理由で流されたように生きていくのだと思います。
高校まで、何のために勉強するのかよく考えもしなかったし、高校の勉強は大学入試で点数を取るための手段としか思っていなかったので、好きな教科は好きでしたが、嫌いな教科は微塵もやる気がありませんでした。楽しくもないし、意味を見出していなかったからです。
そもそも、明日死ぬとしたら、今この瞬間勉強しようという高校生が存在するのでしょうか。いるとしたら、それはもう狂気の沙汰ですね。最後に友達と遊ぶなり、本を読むなり、好きなことをする方が良いと考える高校生の方が多いと思います。
意味を見出すというのは、明日死ぬとしても、今勉強が楽しくてしょうがないという頭の狂った高校生になれ、という意味なのかもしれませんね。もしくは若い時代の3年間を手段として割り切ることができるか、といったところでしょうか。
ただ、北大はいい意味で頭のとち狂った学生が多く、とても楽しかったです。今も、Ph.D.というのはある意味社会不適合者の称号だと思っていますので、それを持った仲間と話すと、いい意味で馬があうことが多いです。とち狂っているのも楽しいものです。
釧路でちょっと勉強ができて、周囲と合わないなと思っている学生がもしいるのだとしたら、もしかしたら難関国公立以上に行く素質があるのかもしれませんね。
いずれにせよ、いい大学にいったから幸せになれるわけでも、お金持ちだから幸せになれるわけでもない。じゃあなぜ勉強するの?というのを考える良い記事だったと思います。
興味深いエピソードを含んだ長文のコメントをいただきありがとうございます。とても嬉しいです。
自分が属する共同体・社会に適合すると生きやすく、適合できないと生きにくいのでしょう。
または、
適合できない共同体・社会から離脱し、適合しやすい共同体・社会に属するようにすることが生きやすいのでしょう。
この場合の共同体・社会というのは国家、地域、学校などはもちろんのこと、ある程度同じ価値観を共有する個人の集まりを指します。
これら共同体・社会から離脱することは、大人だってそう簡単ではないのに、まして子供の場合は、自分が属する共同体・社会の選択の余地がほとんどありません。
ただ、これは、今の大人たちが子供だった頃だって同じだったはずです。学校という共同体・社会からの離脱が大人になる証なのかもしれません。
何のために勉強するのかを考えている高校生は多くないと石川も思います。大学入試で点数を取るための手段であると考えられていればもう十分であるとも思います。
「今勉強が楽しくてしょうがない」となれればそれに越したことはないでしょうが、そこまででなくともまったく構わないと石川は思っています。
ただ、
生まれた地域、家系・血筋、先天的な能力、など様々な不満があるかもしれません。また、たまたま今自分が属している共同体・社会の価値観や人間関係からそうせざるを得ないと思っているかもしれませんが、他の選択だってできたはずです。しかし、学校に通い勉強している。大なり小なり自分で「勉強する」という選択をしていることに対して自覚的であるべきだし、自分の選択に誇りを持ってほしいと思うのです。
価値観は多様であり、それぞれの価値観が認められるべきであるとも石川は思っています。しかし、石川が高校生の時のように「勉強できることが偉い」というくらい単純化された価値観を提示された方が、自分自身がどの共同体・社会に属するべきかを判断しやすかったように思うのです。自身の価値観が確立されていない時期に「ある種正解みたいなもの」が提示されないのは、寧ろ、自分の価値観を確立する難易度が高いように感じています。
これからもコメントをいただける記事がかけるように頑張りますので、宜しくお願いします。